テンプル騎士団(The Knights Templar)
その2

著者:John H. Crowe, III
日本語翻訳:TRAM


 初期に修道会が直面した障害は、まだ教会から正式に認証を受けていないということだった。そこでユーグ・ド・パイヤンは教皇の支持を得ることを堅く決意した。1126年、2名のテンプル騎士団員がベルナール*1の暮らすフランスの修道院を訪れている。偶然にもベルナール(後に聖ベルナルドゥスとなる)は前述の騎士団員の一人、アンドレ・ド・モンバルトの甥であった。2人が訪問したこの時点で、騎士団はすでにかなりの名声を勝ち得ておりベルナールもその名を聞き及んでいた。

 アンドレは、教会からのテンプル騎士団公式認証を得るためのベルナールの助力を求めるボードワン王からの親書を携えていた。親書とともに2人の騎士はベルナールの賛同を得るべく説得にかかった。そしてベルナールはその計画の中に神髄を見極めた。宗教と軍隊を一つに合わせてしまうことによって、世界中のキリスト教布教地をより強固にすることができることに気づいたのだ。

 ベルナールは辺鄙な修道院の無名の修道院長というわけではなかった。彼は教皇に対して大変に影響力を持った、みなに非常に尊敬されていた聖職者であった。彼がローマにテンプル騎士団について働きかける一方で、ユーグ・ド・パイヤンと数名の騎士は彼と合流するべくエルサレムを立ちイタリアへと向かった。ベルナールの後ろ盾や聖地での確固たる業績もあって、教皇ホノリウス二世から騎士修道院に対する公式認証を得ることはさほど難しいことではなかった。そして1128年1月18日、騎士修道院の存立に関する公式規則制定のため委員会が招集された。

 単に「戒律」として知られる修道会での規範は、貞潔、清貧、服従の3つの誓いをより強固なものにした。この規範はテンプル騎士団の行為に堅固な枠を設け、騎士団員の生活のガイドラインともなった。「戒律」は厳しく、騎士が富を集めることを許さない。騎士が得たいかなる財産も、修道会に引き渡される。騎士は他人のもとに仕えたり、債務を作ることはできない。それゆえ借金することも、世俗のあるいは宗教の指導者に対して忠誠を誓うことも、結婚することも、そして名付け親(Godfather)となることもできなかった。女性と交際することもできず、母親や女兄弟と挨拶のキスをすることさえ禁じられた。どのような形であれ性行為も禁じられた。いかなる女性も修道会に参加することは許されなかった。

 大変意義深いことに、教皇直下の公的武装組織が初めて成立した。10年後には、教皇インノケンティウス二世*2の出した教皇教書「Omne Datum Optimum」によって組織はさらに強化される。この文章にて修道会は確固たる存在となった。そこでは、いかなる世俗の支配者や聖職者もテンプル騎士団に対してその権力を行使することはできないことを明言している。修道会はいかなる者に対しても様々な税金や十分の一税*3を支払う必要はなく、また教皇の同意なくして犯罪の告発を受けることもなかった。テンプル騎士団団員の個々人は清貧の誓いをしていたが、修道会自身は富を貯えることができた。テンプル騎士団は事実上、教皇の私兵となり、独立性を兼ね備えた組織となった。

 騎士はキリスト教国中から広く募集された。修道会には大きく3つの階層がある。第一に騎士。一般的に彼らは修道会に入会した世俗の騎士や貴族たちである。彼らは白いマントを身にまとい、第二回十字軍の際には特有の8本の十字架がローブに付け加えられた(対照的に、ホスピタル騎士団は白の十字架が入った黒いマントを着用し、ドイツ騎士団は黒の十字架が入った白いマントを着用していた)。大半の騎士たちは修道会にその生涯を捧げたが、準会員として参加した者もいた。そういった者たちは、「戒律」の教義全てを支持し、常時騎士として活動しなくてはならなかったが、それは特定の期間の間だけであった。準会員の騎士としてはアンジュー伯フールクが最も有名であろう。修道会に貢献した数年後に、彼はエルサレム国王となっている*4

 騎士たちは貧しかった。個人的な所有物の所持はもちろん、自分たちやその持ち物を飾り立てることさえ許されてはいなかった。そのため彼らの所有物はみな平凡で簡素なものだった。これが結果的には事務的で均一な外観を与え、彼らをいかなる状況でも目立たせることとなった。各人は鎖帷子一式と2、3頭の馬(1頭の巨大な軍馬は戦闘の際に使用し、残りの1、2頭の馬は日常で使用した)、武器一式を所有していた。彼らは尊敬を受け、十字軍参加者の中でも目立っていた。また髪は短髪に、あごひげは長くしていた。だがヨーロッパで流行していたスタイルは、その正反対であった(男性は大抵髪を長く伸ばし、髭を奇麗に剃っていた)。イスラム教地域ではあごひげは男らしさの象徴であり、この点でテンプル騎士団は有利であったかもしれない。敵がキリスト教徒で最も手強い相手として彼らを認め、それゆえ彼らを尊敬していたということも、ありえる話である。

 騎士の後は、従士だ。彼らには修道会の厳格な規定は定められておらず、茶色もしくは黒のマントをまとっていた。「修道士(Brother)」とも呼ばれる従士は市民(中産)階級の自由民男子であり、武装もしてはいたが騎士ほどに重武装はしていなかった。騎士の従者、衛兵、執事などの役割を務め、騎士修道院の戦力として重要な存在だった。

 三番目に、テンプル騎士団の支配層であり人数も最も少ないのが聖職者である。彼らは緑のローブをまとい、常に手袋をしていた。テンプル騎士団の聖職者として、彼らは修道会の総長にのみ従っていた。

 テンプル騎士団の指導者には総長の称号が与えられた。ヨーロッパの様々な国にあるテンプル騎士団の支部にはそれぞれ長がおかれ、各長は総長と、そしてもちろん教皇に従っていた。例えば、アラゴン*5の長はアラゴンにおけるテンプル騎士団の全活動を統括しており、彼は総長に対してのみ責任があり、地元の教会や支配者に従ってはいなかった。

 騎士団が存続していたおよそ200年間の間に、テンプル騎士団は発展し、拡大していった。これは、パレスチナでのテンプル騎士団の軍事力が増強していったというのではない。むしろ、ヨーロッパで成長していったのだ。

*1…Bernard de Clairvaux(1090〜1153)。クレルボー修道院の創設者。

*2…Innocent II。ローマ教皇。在位1130〜43年

*3…【十分の一税[tithe]:古代には神への供物や慈善行為のために献じた財産または収穫の十分の一。中世以降は教会の維持、聖職者の扶養などのために収めた同様のもの。19世紀中には廃止された。】――ランダムハウス英和大辞典より抜粋

*4…アンジュー伯フールク(フールク・ダンジュー)。ボードワン二世の死後、フールク一世の名でエルサレム国王となる。在位1131〜43年。

*5…スペイン北東部の王国。首都はサラゴサ。

(トップへ)
(その1へ)

(その3へ)

1997 John H. Crowe, III.


訳者ノート:テンプル騎士団その2です。今回も歴史的側面などについての解説が中心となっています。その1でも書きましたが、今後暫くは今回のようなテンプル騎士団の歴史や組織構成などに関する解説がメインとなりますが、しばしお付き合いください。(TRAM)


前に戻る