テンプル騎士団(The Knights Templar)
その4

著者:John H. Crowe, III
日本語翻訳:TRAM


 14世紀初頭の十年間は、フィリップの陰謀は実行されなかった。だが1307年10月30日の金曜日、フランス国内にいる数千人のテンプル騎士およびその同志が逮捕された。このタイミングは完璧だった。というのも総長ジャック・ド・モレー含む高位のテンプル騎士の大半がこの時フランスに滞在しており、そのため彼ら全員が獄中の身となった。誰もフィリップの策謀を予期した者はおらず、逃れ得た騎士もごく僅かだった点からしてもこの策謀が非常に効果的だったことが分かる。フィリップはこの騎士修道会に対して突飛で根拠のない異端者という非難を向けた。テンプル騎士団自体と団員個々人は、偶像崇拝・男色・高利貸・魔術などの名目で告発された。逮捕を命じたフィリップのその行為の正当性に敢えて異議を唱える者はいなかった。異端とは教会裁判にかけられるべき宗教的な罪であった。世俗の支配者は逮捕を合法的に行なうことができ、教会裁判によって下された刑を施行することができた。だが世俗の支配者は、告発をし、囚人に尋問し、自白を引き出し、裁判を行なうべきではない。だがこれらはまさにフィリップが行なったことだった。

 その後数年間に渡って、テンプル騎士たちは拷問にかけられ、自白を強要された。拷問の内容も当時の基準から考えても極めて残忍なものであった。拷問の結果、多くが獄中死している。そしてさらに多くの者が苦痛から逃れるべく自白した。教皇クレメンス五世はフィリップの行為にある程度までは抗議の意思を見せ、テンプル騎士たちが教会裁判における告発から合法的に免除されうる可能性も見えた。だが騎士修道会にとっては不幸にも、フィリップは教皇クレメンスによる審問の結果に左右されることなく、多くのテンプル騎士が異端者として火刑に処されることとなった。クレメンスも結局はそれに屈し、同様の命令をフィリップの王国以外の全キリスト教国に対して命じている。

 フランスの支配地域において、騎士修道会の排除は徹底的で完全だった。一方他の地域では、騎士たちは自分の身を守ることもできた。ドイツでは、何名かの司教は告発に対する騎士修道会の潔白を明らかにした。イングランドでは、証拠が殆ど無かったため誰も重大な犯罪に対する有罪判決を受けなかった。アラゴンでは、事前に注意していた騎士たちが自分たちの城や拠点に立てこもり、その結果軍隊による降伏を強要された。攻防戦が4ヶ月もの間に渡って続くものもあった。アラゴンにおける彼らの抵抗にもかかわらず、続いて起こる裁判において悪事の具体的証拠が提示されることは殆ど無かった。フランスを除き、最大のテンプル騎士団員数を擁するキプロスでも同様のことが言えた。

 拷問がフランス以外でも広く行なわれてはいなかったという事実(イングランドでは全く行われなかった)は、フィリップが提示し得た証拠はみな拷問や拷問による脅迫により得た自白であることからしても、注目すべき事項である。多くのテンプル騎士が偶像崇拝を(強要されて)認めたにもかかわらず、テンプル騎士が崇拝していたという偶像が決して発見されなかったことからも、フランスにおけるこの告発がいかに脆いものであったかということがよくわかる。

 1312年4月3日、教皇クレメンス五世は公式にテンプル騎士団を解散させた。(教皇が教会の所有を主張した)イベリアにおける所有地を除き、騎士修道会の所有する土地はホスピタル騎士団に引き渡すよう命じられた。いくらかの財産は引き渡されることなく、世俗の支配者によって押収されてもいる。テンプル騎士団の排除は成功したとはいうものの、フィリップは自分にとって主要な目的であった莫大な富を手に入れることはついに叶わなかった。フィリップはテンプル騎士団の領地を望み、教皇の布告に抵抗を見せたが、結局はその大半をホスピタル騎士団が手にすることとなった(とはいえ、その土地を手に入れるためにはフランス政府に多大な金額を支払わねばならなかった)。

 残った騎士修道会のメンバーに関する記述は曖昧である。獄中を生き抜いた者には以前のテンプル騎士団の領地からの収入により年金が与えられ退職させられた。ある地域(特にイスラム勢を追い出すのにテンプル騎士団が貢献したイベリア)では、元テンプル騎士団員が他の騎士修道会に入会することが許された。最後のテンプル騎士団総長の最期は挑戦的なものだったといえる。すでに70歳を迎えていたジャック・ド・モレーはフィリップによる告発に対して拷問により自供していた。1314年3月、彼に選択肢が与えられる。彼は自白を認めることも、撤回することもできた。自白を認めれば残りの人生を獄中で過ごす結果となるが、苦痛はそこで終わる。だが自白を撤回すれば、火刑という極めて苦痛に満ちた死が待っていた。しかしジャック・ド・モレーとノルマンディー管区長ジョフロワ・ド・シャルネー(Geoffrey de Charney)は公的に自らの自白を撤回した。有言実行の王はただちに彼らの処刑を命じた。ノートルダム近くのセーヌ川の小さな中州にて、両者は生きたまま火刑に処された。

 テンプル騎士団に関する幻想は数多い。これら幻想の一部は彼らの秘密主義的なその伝統や、彼らに対するいわれのない告発から生み出されたものである。邪悪な秘密結社だとか、魔術師や異端者を匿っていただとか、秘儀や冒涜的知識を収集し保持していた、などといったものだ。これを証明する証拠は何もなく、クトゥルフの呼び声の文脈に対してこういった幻想の取り込みを推進することが著者の意図ではない。読者はこの騎士修道会の概要について学び(研究するための資料については参考書籍の項にリストアップしている)、テンプル騎士団を自分たちのゲームやキャンペーンに対してどのように反映させるかを決めて欲しい。

テンプル騎士団の神話、神秘、そして伝説
テンプル騎士団の神秘性にまつわる話は数多い(事実に基づくものもいくつかある)。これらの伝説は世界中の作家に格好の素材を提供している。

ジャック・ド・モレーの呪い
最後の総長の死去に関しては様々な文書が残っており、本記事でも記述している。だが、彼の死の瞬間に関する曖昧な噂もある。彼の足元に火が点けられた時、彼は己の無実を言い続けたというものだ。その上彼はフランス国王フィリップ四世と教皇クレメンス五世を公然と非難し、神の名の下に呪った。その呪いとは、騎士修道会に対する罪の答弁のため、両者を1年以内に神の法廷に出頭するよう指名するだろうというものだった。実際、両者は1年以内に死亡している。クレメンスは翌月に長引く病気のため亡くなり、フィリップは11月に狩りの際の奇妙な発作により死亡した。

テンプル艦隊
ラ・ロシェル(La Rochelle)はフランスの西海岸に位置する港町で、テンプル艦隊の母港でもあった。当局がその艦隊を押収する前に、ラ・ロシェルから艦隊は逃げ去ったという伝説がある。この艦隊の船に積まれた富の可能性は計り知れない。奇妙なことに、それ以後テンプル騎士団の船は二度と目撃されていない。歴史家もこの伝説の妥当性については未だ結論を出せずにいる。

テンプル騎士団の財宝
テンプル騎士団の抱える富は莫大なものであり、また彼らを失脚に導いたのもまたこの富のためであった。実際には彼らの富の大半はずっと以前に世俗の支配者や教会の金庫へと消えていったであろう一方で、行方不明の金があると主張する者も
いる。その一例は、スペインのテンプル騎士団拠点跡が残る丘の頂上にあった。今世紀初め、そこで井戸を掘っていた際にある男が封印された地下室を発見した。そこには失われたテンプル騎士団の金がいくらばかりか残されていた。発見した男の家族は財宝の発見をもくろんで発掘を始めた。だがスペイン政府は結局この場所を封印しなければならなかった。というのもこの丘はトンネルによって蜂の巣状になってしまい、城に崩落の危険性があったためだ。コンクリートの支柱で丘を補強するべく技術者が呼ばれ、そのおかげでこの歴史的建造物は破壊から守られた。

アッコンの財宝
1291年のアッコン包囲戦の最後の瞬間に、テンプル騎士団は可能な限りの多くの非戦闘員たちを船に乗せている。また同時に、テンプル騎士団の財宝もこの船に積み込まれた。積荷の正確な内容については今日でも謎のままだが、アッコンという場所柄もあり様々な憶測が成されている。金や銀、貴重な宝石は言うに及ばず、そこには財宝と共に重要な聖遺物もあったのではないかとも推測されている……もしかもすると聖杯それ自身も。

消えたテンプル騎士
驚くことではないが、フランス以外にいた多くのテンプル騎士は官憲に捕まることなく逃亡した。また他の者も監禁を逃れた。逃亡した者は破門され、裁判に出頭するための猶予期間を与えられる。この期間を超過した場合は、ただちに異教徒として(火刑による)処刑を行なう旨の判決が言い渡された。今日でも彼らの行方は不明である。彼らのその後の運命を解明する試みは数多く為されている。彼らは逃亡する際にかなりの財宝を持ち出すことができ、ある者はその資金を使って彼らは地下に秘密結社を作り(現在でもその組織が存続していると主張する者もいる)、またある者は1314年にイングランドと戦いを続けていたスコットランド王ロバート一世*1に仕えたという。実際の彼らの運命がどうであったにしろ、これはフィクションの格好の素材となるだろう。

*1…Robert the Bruce(1274〜1329)。スコットランド国王(1306〜29)。イングランド軍を破り、スコットランドの完全独立を認めさせた国民的英雄。

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1997 John H. Crowe, III.


訳者ノート:テンプル騎士団その4です。テンプル騎士団の歴史もここにきてついに終わりを迎えました。騎士団は不幸な最後を迎えましたが、それゆえにか後世に残された伝説も数多く存在します。今回紹介しきれなかった部分は、次回に紹介します。次回で「テンプル騎士団」は一応は完結しますが、実際には騎士団の200年以上に渡る年表がまだ未訳部分として残っています。この年表は他の新記事の掲載と平行して翻訳をしていく予定です。(TRAM)


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