テンプル騎士団(The
Knights Templar)
その1
著者:John H. Crowe, III
日本語翻訳:TRAM
この記事は、実世界における本物の秘密結社や秘密組織について扱うシリーズ記事の第一弾です。彼らの歴史を徹底的に調査することで組織に光をあて、そしてその組織が何ゆえ存在し、何を行ってきたのかを明らかにすることが本記事の主眼です。本記事で扱うテンプル騎士団を含めたこういった集団組織は、「クトゥルフの呼び声」世界に登場する組織のモデルとすることができます。キャンペーンに真実味を加えるために秘密結社を作りむ上でも、本記事は有用だとそう思われる読者もいることでしょう。
イントロダクション
第一回十字軍の余波により、キリスト教ヨーロッパ社会には新しい概念――武装修道会(Military Order)――が導入された。3つの武装修道会が12世紀に現われ、聖地だけではなくヨーロッパ、中東全域に渡り衝撃を与えた。厳密に言えば、エルサレム・聖ヨハネ救護騎士修道会*1、のちのホスピタル騎士団がその先駈けである。キリスト教巡礼者の要望にこたえてエルサレムに救護所を建設した11世紀半ばにその起源を辿ることができる。しかし12世紀に入るまでは彼らがその手に武器を取ることはなかった。本当の意味での最初のキリスト教武装修道会は、ソロモン神殿騎士団――テンプル騎士団(Knights Templar)――である。そのコンセプトは画期的なものだった。彼らは騎士であると同時に修道士でもあり、血を流すことを許されたキリスト教国唯一の宗教者たちなのだ。
最後に世界の表舞台に立つのはドイツ[チュートン]騎士団(Teutonic Knights)である。このドイツの修道会は大成功を収めたテンプル騎士団を真似て結成され、聖地よりもバルト地域*2で主に活動した。
他にもキリスト教武装修道会は第一回十字軍以後いくつも結成されたが、名声もそして上記の武装修道会のような悪名も得ることはなかった。この中ではテンプル騎士団が最初に消滅したが、ホスピタル騎士団は現在も存在している*3。
テンプル騎士団
神秘のベールに包まれ、いわれの無い非難を受けたテンプル騎士団は、第一回十字軍以降に現れた3大キリスト教武装修道会の中の一つである。当初は「キリストの貧しい騎士たち(the Poor Fellow-Soldiers of Jesus Christ)」という名称で知られていた彼らは、ソロモン神殿跡地の一部に修道院を建設した。そして元の名称はすぐに消え、新しい名――ソロモン聖堂騎士団(the Knights of the Temple of Solomon)――がそれに取って代わった。また一般には、テンプル騎士団と呼ばれていた。テンプル騎士団は12世紀初めのパレスチナで7人(もしくは8人)の騎士によって結成され、その時のリーダーはユーグ・ド・パイヤン(Hugh de Payens)である。この僅かばかりの男たちの目的は、建国間もないエルサレム王国*4の治安維持だった。王国自身は、1099年に第一回十字軍によってエルサレムが陥落してすぐに建国された。しかし十字軍が終わると、大半の参加者はヨーロッパの祖国へと戻っていった。そのため残されたこの建国間もない征服王国には領土を防衛したり治安を維持するためには重要な常備軍が存在しなかった。巡礼者や旅行者はイスラムの山賊に襲われることも度々だった。また、捕まることなど恐れもせずにエルサレムの城門が見える所にまで近づいてきた大胆な山賊もいるくらいだった。仮に山賊を追い払ったとしても、イスラム教徒は領土内の2つの都市アスカロン(Ascalon)とテュロス(Tyre)を依然として支配しており、山賊たちはその城壁の中の安全地帯へと逃げ帰ることができた。
ド・パイヤンの願いは巡礼者を警護し、神聖なる軍務のためこの地に留まることだった。清貧の誓いをたてた彼らの存在はすぐにエルサレム王ボードワン2世の知る所となった。王はその一団に可能性を見て、様々な援助を行った。そしてソロモン神殿の跡地と考えられていた場所に、彼らはエルサレムがキリスト教徒の手にあるあいだ本拠地となった建物を与えられた。1125年、ユーグ・ド・パイヤンはボードワン王によりテンプル騎士団総長の称号を与えられている。この時、修道会結成から7年しか経っていなかった。
テンプル騎士団の主要任務は聖地の守護と、領地を通る巡礼者たちの警護である。ホスピタル騎士団が軍事組織となるまでは、文字どおり唯一の常備軍だった。とはいえ、ホスピタル騎士団と協力したとしても両者を合わせた軍事力は、潜在的な敵の数と比較すれば余りにも小さなものだった。
*1…原語は the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem 。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)または、聖ヨハネ騎士団とも。1070年頃にイタリアの商人たちがエルサレムの聖墳墓教会の近くに修道院と聖地巡礼者用の救護所を建てたのがその起源といわれています。
*2…バルト海やバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)などで知られる地域のこと。チュートン騎士団は初め聖地で慈善医療活動を行っていましたが、後に祖国の東方進出に際してスラブ・バルト諸民族と戦いました。
*3…聖墳墓騎士会の名称で存在しています。
*4…初代国王はゴドフロワ・ド・ブイヨン(在位1099〜1100)。彼の死後は弟のエデッサ伯ボードワンがボードワン1世(在位1100〜1118)として後を継いでいます。また、ボードワン2世(在位1118〜1131)はその従弟にあたります。1997 John H. Crowe, III.
訳者ノート:今回は翻訳の分量が少な目となってしまいました。タイトルに「その1」とついていますように、本記事は以前翻訳した記事「警察の力」と同様、連載形式で順次掲載していきたいと思います。また、しばらくはテンプル騎士団の歴史について扱っていくことになります(…つまり、クトゥルフ的要素?のある内容はまだ先になりそうです)。
本記事の翻訳に際してはジョルジュ・タート著 池上俊一監修『十字軍 ― ヨーロッパとイスラムの対立の原点』創元社を参考にさせていただきました。(TRAM)