Esoterica:ナンマドール(Esoterica:Nan Matol)
著者:G. W. Thomas
日本語翻訳:TRAM
ナンマドールはクトゥルフの呼び声においては特別な場所である。この太平洋のカロリン諸島にある都市遺跡は、ラヴクラフトの『インスマスを覆う影』を読んだ者には恐怖と興奮を覚えつつポナペを思い起こさせる。ダゴン秘密教団、ポナペ島経典、この南海の島から奇妙な花嫁を娶った呪われしマーシュ一族……ラヴクラフトは邪悪なる深きものどもの故郷としてこの謎多き地を選んだ。
知名度が高いにもかかわらず、ポナペについてよく知っている者は殆どいない。426平方キロのこの密林の島は、オーストラリアから北に約2000km、ハワイから南西に約6800kmの周囲に小島が密集した地に位置している。最初の移住民はハワイやパプアニューギニア、フィジーと同じくミクロネシア人である。彼らはマーシャル諸島などの他の島々からカヌーに乗ってやってきた。当初は小さな漁村があるのみであったが、西暦1400年にはこの島の王国は人口8000人へと成長していった。
(チョーサーが「カンタベリー物語」を執筆し、ヘンリー5世がエジンコートでフランスと戦っていた)この頃、繁栄を誇った漁師の部族長が周囲の諸部族をまとめ自らを王とし、自分のことを「サタラー」もしくは皇帝と呼ばせた。サタラーは他のポナペ神話の神々と同様に神聖なる亀神を祭る特別な神殿の建造に着手した。新しい支配者の元で発展を遂げた聖なる都こそが、今日我々がナンマドールの名で知る遺跡である。400年間その神殿は使用されてきたが、ヨーロッパ人がやってくるほんの前に、何らかのミステリアスな出来事の結果その聖なる都市は廃れ、ジャングルの中に放置された。
ポナペに最初に訪れたヨーロッパ人は、アルバーロ・デ・メンダナに率いられたスペイン人たちであった。メンダナとその乗組員たちは南半球を覆っていると考えられていた未知の土地「テラ・オーストラリス(訳注:ラテン語。南の国の意)」を探していた。彼らの4隻の船は1595年にペルーを出立してソロモン諸島を発見し、その地でメンダナは死を迎えた。その中の1隻サン・ペドロ号はフェルナンデス・デ・クイロスに率いられてマニラへと向かう途上の1595年12月23日にポナペ島を発見した。クイロスは原住民と平和的に交易をして、その後グアムへと戻った。
次にポナペを訪れたヨーロッパ人は1826年に難破したアイルランド人の船乗りジェームズ・オコンネルだった。オコンネルはその島で11年間を過ごし、結婚をして2人の子供を持った。彼はナンマドールにも訪れている。救出されイギリスへと戻ったオコンネルはこの忘れ去られた都市について本を著し、この都市の存在を報告した最初のヨーロッパ人となる。
オコンネルの著書「The Life of James F. O'Connell, Pacific Adventurer」(1853)では、彼はポナペがいかにして5つの王国(北のヨカズ、北東のユー、南東のメタラニム、南のネット、西のキティ)へと分離していったかを記している。これらの分離した5王国はもはや独りのサタラーに支配されることはなかったが、相容れない酋長たちによってそれぞれ支配されていた。
オコンネルの著書の記述は学術性が低く、誤情報も多く含んでいた。幸い1800年代後半にはポナペに他にもヨーロッパ人が訪れ、その中にはミクロネシア研究のティレニウス遠征隊(1908〜10)も含まれていた。遠征でのポナペ研究結果をポール・ハンブルックは1933年から1936年の間に3冊著している。だがその著作はドイツ語で書かれていたため、オコンネルの読者たちの誤解を解くには至らなかった。
ハンブルックの調査によると、かつて12人のサタラーがいて、おそらく初期のサタラーの一人がナンマドールを建造したということだった。ナンマドールやメタラニムを含む一部の島々は、サタラーへの貢ぎ物を拒んだ近隣の島クサエの王によって征服された。この新たなる支配者たちは自分たちのことをナンマルキスと呼んだ。彼らが聖なる都を強奪した結果、人々は異なる5つの集団へと分裂していった。
ポナペの訪問者全員がジェームズ・オコンネルのように友好的というわけではなかった。1828年にロシア人たちがキティ港にロングボートで入港しようとした時、地元民と交戦している。また、イギリス人乗組員がビーチで虐殺され、その報復として原住民が虐殺されてもいる。南部連合の襲撃軍はポナペの沖合いに停泊していた北部の捕鯨船を破壊した(訳注:ここの北部・南部とはアメリカのそれを指しています。南北戦争もこの頃です)。捕鯨者、脱走兵、白人浮浪者たちがアメリカ人やスペイン人の宣教師たちとともに島へとやってきた。そして彼らが連れてきたネズミや豚が現地の動物相を一変させた。また、白人たちは病気も現地にもたらした。この頃原住民の人口は最盛期の百分の一ほどにまで減少している。そして他の太平洋の島々のような地元文化は永遠に失われてしまった。
カロリン諸島の支配権は、西側勢力の間で何度も移り変わった。当初はスペイン領を宣言され、島々は米西戦争の際にアメリカに奪われたがその後返還され、スペインはドイツに売り払った。ドイツによる支配は1910年にポナペ島民による反乱が起こったほどに人気がなかった。だが反乱は無慈悲にも押し潰され、指導者は処刑された。その後間もなく第一次大戦中に日本に併合され、第二次大戦中にはアメリカに奪われる。カロリン諸島は1944年までアメリカの支配下にあった。遺跡の現場
ナンマドールはポナペの主島から多少離れた、タムエンというメタラニム湾そばの小さな島に位置している。この島はポナペの他の島々とは違い平坦な地形をしており、その為もあってかこの地が選ばれたのかもしれない。オコンネルがその島を訪れた時には既に住む者はおらず、果樹やジャングルの木々に島は覆われていた。地元のガイドは誰がこの遺跡を建造したのかも知らず、恐ろしい精霊の仕業だと言っていたという。
オコンネルは著書の中でナンマドールを「太平洋のヴェニス」と呼んでいる。この場所には潮の満ち引きによる自然の運河が縦横無尽に走っている。そしてマングローブや他の熱帯の木々が水路に沿って生えている。神殿や内側の港は北と東の防波堤によって海洋から引き離されており、石の障壁によって周囲を完全に囲まれている。これらは住居に使用されているものと同じ素材である結晶玄武岩によって建造されている。結晶玄武岩は地中深くでの結晶化作用によって生み出された多角岩で、溶岩によって地表へと押しやられたものである。この「灰色の石」はアイルランドの「巨人の歩道」のような有名な遺跡に使われている岩と似通っている。
地元民はポナペの北東の海岸に沿って24kmの場所にあるヨカズの玄武岩を切り出してその岩を適当な長さに割ると、いかだを組んでタムエンへと運んだ。海底に沈んだいかだもあることを考えると、全てが安全に到着したわけではないようだ。
かつてナンマドールでは、丸太小屋に材木をあてがうが如くに石の丸太を積み重ねて壁を形成していた。この素の壁には漆喰などの仕上げは全くなされておらず、大きな隙間が開いている(中には人間の頭ほどの隙間もあるほどだ)。象形文字といった言語的文様はこの石には一切刻み込まれていない。全体的な印象としては、未完成品のようでもある。ナンマドールは昔の思索家が考えたような失われし種族の建築学的偉業とは言えない建造物だ。
石の障壁内にある数々の建造物は、様々な目的のため使用された。いくつかは異なる神々の神殿だった。そして他の建造物は、ナンマドールの唯一の住人であるサタラーとその家族、異種の神々の神官たちの住居であった。また都市の一角には死したサタラーを安置する地下室が建造されており、神聖なる亀の侍祭の住居と同様の高さ9mの壁に覆われていた。
多くの都市と同様に、ナンマドールもゆっくりと発展してきた。歴代のサタラーたちは聖なる神殿を建造し、運河へと通ずる自然の入り江を拡張し、石で水路を築いた。400年の間にこの小島はジャングルから壁に囲まれた港のある都市へと変貌を遂げ……そしてうち捨てられた。気味の悪い繋がり
レムリア:ポナペには独自の超自然的な歴史を持っており、ラヴクラフトはそれをクトゥルフ神話と結び付けた。実際、彼がインスマスの問題源としてそれを選んだのもおそらくはその評判のためだろう。オコンネルの著書が出版されると、タムエン島と忘れ去られた都市に関する憶測は燎原の火の如くヨーロッパ社会に広がった。思索家の中にはそここそがアダムとイヴのエデンの園だと主張する者もいた。だがより一般に受け入れられた考えは、ナンマドールがレムリアとして知られる巨大な太平洋帝国の遺物であるというものだった。
レムリアというアイデアは神秘主義者によるものではなく、科学者により出されたものだった。ウィリアム・T・ブランドフォードはインドとアフリカの地形が似ていることに着目し、彼はかつてはそこに地続きとなるような陸地が存在したのではないかという説を提唱した。そしてドイツ人生物学者エルンスト・ハインリヒ・ヘッケルはアフリカとアジアに住むキツネザル(lemur)の分布を説明するためブランドフォードの説を利用し、この仮説的大陸をレムリア(lemuria)と命名した。
ブラヴァツキー夫人:これらのアイデアは極めて真面目な学術的な提案であったが、19世紀の有名な神智学者にもそのコンセプトを使用されることとなった。ヘレナ・ブラヴァツキー夫人(1831〜1891)は優れた詐欺師だった。彼女は若い頃、サーカスで裸馬に乗ったり、プロのピアニストや降霊術の霊媒などをやっていたが、1870年代に故郷のロシアからニューヨークへとやってきている。虐げられてきた神秘的な女性を装い、この巨体の中年女性は西洋魔術に東洋のインド哲学を混ぜ合わせ、神智学協会を1875年に設立した。霊的指導をインドの「マハトマ(訳注:大聖人や賢者の意)」から受けたとブラヴァツキー夫人は主張している。
世界を旅し、ブラヴァツキーは著書「The Secret Doctrine」(1888)を売り込んでいった。ブラヴァツキーが言うには、ドジアンの書というマハトマ所蔵の魔術書から借用した内容だそうである。「The Secret Doctrine」では、ブラヴァツキーはアトランティスやレムリアを有名な神話上の都市ハイパーボリアと結び付けている。彼女は人類の進化の過程が7段階に別れることを提唱している。第一根源人種は肉体を持たぬアストラル体(訳注:エーテル体の間違いではないか?)だった。第二根源人種はハイパーボリアをその舞台とし、レムリアの隆盛の影で衰退していった。第三根源人種は巨大帝国レムリアを築いた両性具有の類人猿であり、その衰退とともにアトランティスが台頭した。一部のレムリア人たちは南米やアフリカへと逃げ、インカ人やエジプト人の始祖となった。現在の人類は第五根源人種であり、第六根源人種はアメリカで、最終の第七根源人種は南米でと続いていくという。
ウィリアム・エメット・コールマンがブラヴァツキーがいかにしてインド神話からアイデアを盗作してきたかを暴露してさえも、彼女の妄言を信奉する者は数多くいる。彼女が恥知らずにもリグヴェーダから一節を丸々盗作していることが判明したにも関わらずだ。1891年の彼女の死後も、ブラヴァツキーの信奉者たちは彼女の教えを支持し続けた。
亀神のカルト:ナンマドールにはかつて独自の宗教と超自然的歴史が存在していた。ナンマドールの存在意義は宗教的な礼拝にあった。この地に住んでいたのは王家と数多の神々に仕える神官たちだけであった。その神々の中で我々がその名を知っているのは只一つ…亀神ナンサンサップである。
年に一度、ナンマドールの神官たちは神聖なるマスコットとして一匹の亀を選び出す。その亀はその年の終わりまで特別な場所で飼われた。亀は椰子油の聖油で清められ、宝石類によって装飾を施されて一部始終を見守る一人の神官とともにボートでナンマドールを漂う。亀がまばたきをする度に神官も同様の行為をする。そして亀は棍棒で叩き殺され、切り刻まれて儀式的な饗宴にて調理され、王やカルトの神官へと饗される。
ティレニウス遠征隊の調査によると、ナンマドールの遺棄は「聖なる亀の饗宴」が引き金となって起きた。ナン=マルキ・ルク=エン=メイウの統治の時代(西暦1800年前後)のある年、侍祭の一人が聖なる肉を受け入れようとしなかった。神官は怒り、呪わしい冒涜がナンマドール中に降り注いだと感じたためその夜にはこの地を去った。儀式は汚され、そして(ナンマドールは)うち捨てられた。
ヨカズのドラゴン:ナンマドールに存在したカルトの一つであり、初期の神話には二人の美しい娘を産んだヨカズに住むドラゴン(もしくは巨大なトカゲ)の話が出てくる。娘たちがサタラーと結婚すると、彼女らは自分たちの母親を連れてきてナンマドールに住まわせるよう王に懇願した。ドラゴンが住居へと移り住む際には、聖なる島に運河が掘られたという。自分の義母を初めて見た時、王は彼女の家ごと燃やし殺した。二人の妻は彼の行動に嘆き悲しみ、炎の中に身を投げる。サタラーはそれを嘆き、同じく身を投げたという。ポナペとクトゥルフ神話
これらの事柄をクトゥルフ神話にどうやって結び付けるのだろうか? ラヴクラフトはポナペが深きものどもと強く結び付けられていることを示唆しており、ゲーム内でポナペを訪れた者は迂闊に辺りをうろつき回れば自分たちが差し迫った状況に追い込まれていることに気づくだろう。穏やかな物腰の宣教師などは誤誘導するのに丁度いい存在だ。
ヨカズのドラゴンの伝説は深きものどもの影響としておあつらえ向きだ。王の妻がドラゴンの血によって汚れており、それゆえ不潔であるという着想は、「インスマスを覆う影」における深きものどものそれとも良く似ているともとれる。
CoCに使いやすい話としては、ドイツ系ポーランド人ヨハン・スタニスラウス・クバリーの話がある。クバリーは1800年代にポナペを訪問し、地元から得た情報を元にした長大なポナペの歴史に関する原稿を執筆している。クバリーは異なる島々に四人の妻を娶っていた。彼は妻の一人が男と駆け落ちしたのを苦に、著作の出版前に自殺をしている。原稿は家宝として家族のもとで大事に保管されていたが、偶然にも1930年代に火災によって焼失している。
少なくとも以上が歴史が語る内容である。だがCoCのシナリオとしては、クバリーの自殺の真相を失恋などではなく、彼の妻の家系や原稿の内容によるものだと考えた方が話が膨らむだろう。彼の親戚や友人が真実を隠そうとし、恐ろしい原稿を火災により焼失するまで隠している場合だってあるかもしれない。
総括すれば、クトゥルフ神話における架空の背景を持ったポナペは、住民が深きものどもと密接に関係した島である。ポナペのカルトメンバーは宣教師たちの鼻先で極秘裏に活動を続けている。彼らの秘密儀式は誰にも悟られること無く今日まで生き延び、彼らの影響力はいまだ残っている。そしてヨーロッパ人たちを島から駆逐したその日には……
(トップへ)1994 (C) G. W. Thomas.
訳者ノート:「ナンマドール遺跡:カロリン諸島ポナペ島に隣接する珊瑚礁上にある92個の人工島上にある巨大な石造建築物。13〜15世紀に繁栄。」ランダムハウス英和大辞典第2版より抜粋。
ブラヴァツキー夫人の項を訳すために神智学関連のサイトを回った結果、どうも本記事のG.W.Thomas氏の記述と食い違う部分もありましたが(捕らえ方の違いとも思えるので)訳注などは極力加えずにそのままとしました。
本文中に出てきた「ドジアンの書」については『クトゥルー神話辞典』(学習研究社/1995)から引用させて頂きます。【ヅィアーンの書とも。神智学者ブラヴァツキー夫人 Helena Petrovna Blavatsky (1831〜91)が主著『シークレット・ドクトリン Secret Doctrine』(1888)などで主張するところによれば、本書は<忘れられたセンザール語 the forgotten Senzar language>で書かれた<世界最古の写本>で、特殊処理の施されたヤシの葉にまとめられているという。コリン・ウィルスンは、同書が『ネクロノミコン』の原本ではないか、とも推測している。】 ドジアンの書のゲーム的なデータについては、ルールブック66頁を参照してください。(TRAM)