テンプル騎士団(The
Knights Templar)
その3
著者:John
H. Crowe, III
日本語翻訳:TRAM
初期のテンプル騎士団の状況は厳しいものだった。団員の数も少なく、財産もほとんど無いといってもよかった。ボードワンの気前のよさと、巡礼者たちからの献金に騎士団は頼っていた。彼らが身につけている衣服も寄贈されたものだったくらいだ。しかし騎士修道会が名声と信望を勝ち得ることで、熱烈な賛同者も増えていった。寄付の内容は二つに大別することができる。それは現金と土地であった。このどちらに対しても課税されることはなかった。土地は騎士修道会に多くの富をもたらした。騎士修道会が税を支払う必要が無い一方で、騎士たちは自分たちの支配する土地の住民に対して税を取りたてることができたのだ。
騎士修道会は富を集積することができたため、聖地で活動する彼ら軍隊の食料を賄うためのヨーロッパにおける供給システムを確立し、維持することも可能となった。また、彼らに対する寄付は気前がよかった。騎士修道会が所有する広大な地所や荘園、城がヨーロッパや聖地の各地に点在していた。フランスやイングランド、イベリア、シチリアに領有する土地は特に広大であり、また第三回十字軍の終盤にはイングランドのリチャード王*1からキプロス島を購入しさえした。これら所有地はテンプル騎士団によって有効に運営され、「補給部」として効果的に機能した。軍事力の大半は地中海東部で戦闘している(そして苦境に立たされている)一方で、財力はヨーロッパにおいて大いに栄えた。長期に渡ってフランスの国庫はパリのテンプル騎士団に任されていたくらいだ。騎士修道会は経済的な一大勢力となり、大勢の支配者(ここには教皇も含まれる)に対して銀行や両替業務を行っていた。利子に対する高利の請求はキリスト教徒にとっては罪であったが、実利主義の騎士修道会は「罰金」として集められた利子をテンプル騎士団の資金として運用することでそれを正当化した。またテンプル騎士団の建物内に金を保管しておくことも可能だったが、同様に料金がかかった。料金がかかったとはいえ、テンプル騎士団の下に置かれた金は盗難からは極めて安全であった。さらにそれら資金の受領書を得ることもできた。この受領書によりどこのテンプル騎士団の金庫からでも払い戻しを受けることが可能だった。例えば、パリのテンプル騎士団に金を預けた貴族がはるばるキプロスまで旅をした際に、受領書を提示することによって現金化することができたのだ。だが幾ら正当化できたとはいえ、騎士修道会はその活動に対して妨害を受けることもしばしばあった。
確かに信心深い宗教組織ではあったが、騎士修道会が宗教の教義の盲目的奴隷であったわけではない。実際、彼は時には極めて実利的だった。上記の高利貸し正当化の事例は、その一例にすぎない。理論的には彼らは異教徒と関わったり交渉するべきではないはずであるが、彼らは常にイスラムの不倶戴天の敵というわけではなかった。必要とあらば条約をあっさりと破棄することも厭わない十字軍参加者(やヨーロッパ人)の中でテンプル騎士団のそのような特徴は、敵対するイスラム教徒にとって彼らが信用に足りる存在にうつった。イスラムの偉大な指導者サラーフ=アッディーン*2(ヨーロッパではサラディンとして知られる)は異教徒の戦士たちを憎んでいたが、彼らのことは尊敬していたくらいである。
テンプル騎士団とホスピタル騎士団はエルサレム王国にとって唯一の常備軍であった。軍隊の規模は小さかったが、その団員の優秀さが規模の小ささをある程度相殺した。実際、騎士は戦闘の際に三人以上に取り囲まれた場合を除き逃走することはテンプル騎士団規範により禁止されていた。人数的に敵が優勢なことはたびたびで、小勢のテンプル騎士団員が多勢のイスラム軍に対して勇敢に立ち向かっていったという事例も数多く文書で残っている。戦闘の際には彼らは残忍かつ無慈悲であり、捕虜に対して慈悲を示すこともほとんど無かった。精鋭であったが必ず勝利を得るというわけではなく、戦闘に参加した大勢のテンプル騎士団員は多くの場合は戦死したり、捕虜となった。戦場にて戦死したり、イスラムの虜囚となり苦難の日々を過ごした騎士修道会の総長も幾名かいた*3。悲劇的にも、虜囚となった騎士の身代金の支払いを騎士修道会は拒み、大半の者はすぐさま処刑された。
最終的には、聖地でのキリスト教徒の努力は無に帰した。第一回十字軍だけがその目的を果たしたと言えよう。他の大半は絶望的なまでの大失敗であった。第三回十字軍は最も有名であり、ある程度の成功も収めた。(獅子心王)リチャードに率いられたイングランド軍の目的はサラディン率いるイスラム軍からエルサレムを解放することだった。リチャードはエルサレムを奪取することはできなかったが、沿岸に沿ってキリスト教徒の支配地域拡大に成功した。彼の到着前はただ一つの都市アッコン(Acre)しかキリスト教徒の支配地域はなかった。だが彼が去った時には、沿岸の重要な港や城塞、都市がキリスト教徒の支配下となっていた。
この二つの十字軍のほかには、パレスチナにおけるキリスト教国への永続的かつ有効な影響を残せたものはほとんど無い。せいぜいよくても、滅亡を遅らせたに過ぎなかった。何十年もの間、キリスト教徒(時にはビザンティン帝国のキリスト教徒も含む)はあらゆる面で敵に数で負けていた。第三回十字軍の終結を持って、キリスト教徒が広く熱望していた十字軍の継続の意思も衰えを見せた。残された土地を永続させる唯一の方法は、隣人であるイスラム勢との外交だった。軍事力はキリスト教徒にとって効果的な役割を滅多に果たせなかった。驚くことではないが、パレスチナ最後のキリスト教支配地が1291年に陥落した際*4には、この大事件に対する非難の多くが(不公平にも)騎士修道会に向けられた。
彼らが聖地にいる限りは、その存在意義を疑問視する者が増えているにもかかわらずテンプル騎士団は実質的機能を保持していた。多くの者が彼らの影響力に恐れを抱き始め、さらに彼らのしばしば見せる強硬的な態度に腹を立てていた。彼らは教皇の頑迷な支持者であり、このことは世俗の支配者によくは受け入れられなかった。様々な事業に対するテンプル騎士団の援助が必要とされ、特にビザンティン帝国に対する十字軍の計画などもその中にはあった。最終的には、多くの人々はある極めて具体的な理由によりテンプル騎士団を信用しなくなった。規範が騎士修道会に採用されてすぐに、総長は秘密政策を定めた。騎士修道会の儀式や会合は非公開としたのだ。年月が経つにつれ、人々にはその政策が何やら不吉なものに思え始めた。そもそも彼らが善人で正直なら、なぜ秘密などというものが必要なのだろうか? 彼らが隠しているものとはいったい何なのか? なぜ秘密政策が確立し、長年維持されてきたのかが少し当惑させられるが、彼らが神聖なる誓いに違反するような兆候は一切無かった。
1291年にパレスチナのキリスト教徒最後の支配地が陥落したにもかかわらず、テンプル騎士団の騎士たちの権力は増大していった。だが多くの者の目には彼らの存在意義やその使命ももはや存在しないようにうつった。テンプル騎士団とホスピタル騎士団を合併させるという試みは、テンプル騎士団の(最後の)総長 ジャック・ド・モレー*5によって様々な理由により抵抗にあった。彼はいつの日か聖地に戻りエルサレム王国を解放する夢を未だに抱いていたのである。
ホスピタル騎士団は新たな役割を担っていた。1309年、彼らはビザンティンからロードス島の奪取に成功し、翌1310年には本部をキプロスから移し始めた。ロードス島を要塞化し強力な艦隊を築くことで、東地中海からのイスラム海賊一掃に向けて邁進した。このことがホスピタル騎士団の明白な存在意義をヨーロッパのキリスト教徒たちに印象づけ、それが彼らに有利に働いた。
しかしテンプル騎士団は(現状に対する)いかなる調整も行なおうとはしなかった。彼らは厄介な経済や(もはや存在しない王国に対する軍事的補給を意図した)補給のシステムを維持していた。彼らはヨーロッパ全土に渡る広大な支配地を支配し続け、多くの支配者たちはその土地を切望するようになっていった。フランス国王フィリップ四世*6もそういった支配者の一人だった。端麗王フィリップとしても知られているこのカペー王朝の君主は、冷酷で計算高く、権力も強大で周囲には恐怖を植え付けていた。彼は強大な国王であり、彼に挑戦し得る者はほとんどいなかった。彼の前任者たちは単にイル・ド・フランス(パリ周辺の地域)を支配するだけに留まっていたが、彼はフランス全土を支配していた。フィリップは多大な財政的負担を抱えていた。イングランドを含む隣国との戦争が、後に財政的負担となってのしかかったのだ。ごく当然に、彼はその負担を和らげるための方法を模索した。
彼の最初の標的はフランスのユダヤ人たちだった。ヨーロッパ中でユダヤ人は金貸し業を営んでいた。彼らにとっては高利貸は罪でもなんでもなく、自分の久遠の魂や教会からの非難を心配すること無く自由に金利を取りたてることができた。そしてフィリップは彼らからの多大な額の負債を抱えていた。彼の決定はこうだ。「フランスにいる全ユダヤ人を逮捕せよ」。これにより彼の負債は帳消しとなり、ユダヤ人が所有する私財や金の全てを所有することができた。これに異を唱えるキリスト教集団はほとんどいなかった。結局ユダヤ人はイスラム同様に異教徒と見なされたわけである(例を挙げれば、1099年にキリスト教徒がエルサレムにに侵入した際には、都市に住んでいたユダヤ人たちは無差別虐殺から逃れ、イスラム教徒と間違われるのを避けるため都市最大のシナゴーグ*7に逃げ込んでいた。そして十字軍は建造物を焼き尽くし、中の者全員を殺害した)。1日でほぼ全てのユダヤ人が逮捕され、富を全て剥奪されたこの事件は、テンプル騎士団の運命の前兆ともいうべきものだった。
フィリップにとってこれだけでは十分でなかった。彼は更なる富を求めただけではなく、テンプル騎士団の影響力をも恐れた。ジャック・ド・モレーはビザンティンのキリスト教徒に対する十字軍を起こす計画に対してすでに断固とした異議を唱えていた。彼にとっては、エルサレム奪取およびキリスト教国再建を究極目標としたパレスチナあるいはエジプトへの侵略が目標となるべきだった。ビザンティンの攻撃計画は、表向きはキリスト教異端者に対する圧力であった。だが実際は、ごく単純に帝国が抱え込んでいる莫大な富が目当てだった。
政治的問題は脇において、フィリップは経済的な部分が気になった。彼は騎士修道会に対して法律的に税を課すことができず、彼らがフランスに領有する土地からくる潜在的税収額を彼は受け取ることができなかった。さらに彼らの教皇権に対する支援は王側にとっては強大な教皇に抵抗していたこともあって、棘のような存在となっていた。彼が自分の推すクレメンス五世*8の教皇就任に成功した際に、テンプル騎士団に対して対処することが可能となった。
<訳者注>
*1…獅子心王リチャード一世(Richard the Lion-Hearted)、1157〜1199。イングランド王(1189〜99)
*2… サラディン(Saladin, Salah-al-Din)、1138〜1193。エジプトのアイユーブ朝の始祖(1175〜93)。シリア、メソポタミアに至る大帝国を建設した。
*3…蛇足ですが歴代23名の総長の中で、5人が戦死もしくは虜囚となっています。
*4… この最後の都市とはエルサレム王国の首都アッコンです。
*5… ジャック・ド・モレー(Jacques de Molay)。テンプル騎士団第23代総長(1292〜1314)
*6…端麗王フィリップ四世(Philip the Fair)、1268〜1314。フランス王(1285〜1314)
*7… シナゴーグ(Synagogue)。ユダヤ教の礼拝堂のこと。
*8…クレメンス五世(Clement V)、1264〜1314。教皇在位1305〜14。教皇庁をアビニョンに遷座している(1309)。1997 John H. Crowe, III.
訳者ノート:テンプル騎士団その3です。歴史的側面をあつかった章も大分終わりが近づいてきました(最後の総長ジャック・ド・モレーも登場しましたしね)。この長〜い歴史のお勉強も「次回」で終わりです。(TRAM)